ニセモノの毛皮と長い片思い 〜スピッツ「フェイクファー」感想

「フェイクファー」はスピッツの8thアルバム「フェイクファー」の12曲目に収録されています。

   とても好きな曲です。

   初めて聴いたときからずっと「スピッツを一曲で表すならこの曲だ」と思っています。

スピッツ「フェイクファー」

発売当時の音楽雑誌で

   アルバム発売当時の音楽雑誌の中で草野さんが「フェイクファー」について「シャンソンっぽい」あるいは「シャンソンを意識して作った」というようなことを話してました。

   今と違って当時はwikiもないしサブスクもないので「シャンソン」と言われてもどんなジャンルなのかよくわかりません。

   最近になってこのことを思い出してググってみたら「フランスのポピュラーミュージック」「人生の喜怒哀楽をそのまま語るように表現した歌」と出てきました。

   またサブスクで「シャンソン 名曲」などで検索して聴いてみて、ああこんな感じか~と。

   フェイクファーのAメロの感じがシャンソンに近いのかな、と思いました。


   また草野さんが初めてレコーディングでギターを弾いた曲だそうです。

   それまでは三輪さんが全部弾いてたんですね、きっと。

   当時は歌声と違ってギターは誰が弾いても同じだろうと思っていたし(なんて失礼な!)、てっきりレコーディング専門のギタリストがいるものとばかり思っていたので「レコーディングのギターってバンドのメンバーがちゃんと弾いているんだ~、へ~」って感心したのを覚えています。


   と、ここまで書いておいてなんですが、20年以上も前に読んだ記憶なので違っていたらごめんなさい。


柔らかな心を持った

「フェイクファー」のなかには個人的に印象的なフレーズが3つあります。

「柔らかな心」と「フェイクファー」に関わるフレーズと、そして「未来と別の世界」です。


   順番に見ていきます。

   まずは「柔らかな心」です。


   歌のなかに「柔らかな心を持った 初めて君と出会った」という歌詞が、計3回出てきます。

「柔らかな心」というのはなんだか不思議な言葉です。

   あまり「心」に対して使う言葉ではないですよね。

   優しいでもなく、穏やかでもなく、柔らかい。


「柔らかい」という言葉には「肉感的」なものがあります。

   また「柔軟な思考」というように、思考(考え)に対して言いたくなります。

   他には柔軟剤とか?……洗いたてのふかふかの服の山のなかに飛び込むイメージがあります。


   歌詞は「少しだけで変わると思っていた 夢のような」と続きます。

   君と出会って、僕は変わろうとしている。

   その原動力は君の優しさでも可愛さでもなく、柔らかな心だという。

   その心がもたらすものは、肉体的な儀式なのかもしれない、柔軟な思考による別世界への誘いなのかもしれない。


   変わりたい、変わるきっかけがほしいと切に願っていた十代のころ、僕はこの言葉にひどく惹かれました。

   柔らかな心を持ったキミ!なんて素敵な!

   思い焦がれている子を、勝手にこの歌詞に当てはめてみたりしてました。


ニセモノの毛皮

   タイトルの「フェイクファー」は「ニセモノの毛皮」という意味だそうです。

   フェイクファーというフレーズそのものは歌のなかに出てきませんが、それを想起させる単語はいくつか出てきます。


「唇をすり抜けるくすぐったい言葉の
   たとえ全てがウソであっても
   それでいいと」

偽りの海に身体ゆだねて
   恋の喜びにあふれてる」


   あるいは先ほど書いた「のような」の「夢」も、幻の意味にとらえたら、ここに含まれるかもしれません。


「くすぐったい言葉」というのは甘いささやきだったり美辞麗句だったりでしょうか。

   主人公はそれを半ばウソだとわかっていながら「それでいい」と言います。

「偽りの海」が具体的に何かはわかりませんが、そこに引きずり込まれると悪い方向に行くしかないように思えます。しかし主人公は「恋の喜びにあふれてる」と言います。

「夢のような」についても「初めて君と出会った」「変わると思っていた」と良いことを並べています。

   ウソも偽りも夢も全部、主人公は否定しない。むしろ肯定している。

   騙されてもいいと思っている。むしろ騙してくれ!(?)


   ここから想像する「フェイクファー」の背景は2つあります。

   1つは道ならぬ恋、「不倫」です。

   もう1つは「恋なんて嘘だ」ということです。


   恋をしたら人は変わる、というのは妄想で、

   恋をしたら世界が輝く、というのは妄想で、

   恋をしたら人は強くなる、というのは妄想で、

   恋が世界を救う物語なんて妄想で、

   空から女の子が降ってくるなんてことはありえなくて、

   かわいい幼馴染が隣の家に住んでいて窓越しにおしゃべりするなんてことは絶対にありえないのです。


   きっと恋は思い込みでしかなく、全部幻なのです。

   どんなに輝いて見えても世界は何も変わってない。

   僕はこれっぽっちも強くなれない。

   君だって普通の女の子で、特別な力なんてない。

   そんなことは途中から、いえ初めから知っているのです。


   そうだとしても、僕が君に出会い、君が僕に言葉をくれ、僕がこの恋を喜んでいるということ、それだけは確かな事実です。

   それならば、真実を暴く必要なんてないし、次の場所に進まなくたっていい。

   ずるずるとこの状況を引きずって、ずぶずぶとこの環境に身体をゆだねていたっていいじゃないか。どうせ時間が来れば箱の外へ押し出されるのだから。


   そう、僕にとっては「フェイクファー」は片思いの歌でした。


   そのころ僕はとても長い片思いをしていました。

   きらきらとしていたのは最初だけで、あとはずぶずぶでぐだぐだで、絶対に両思いになることなんてない。

   長過ぎる「片思い」は、対象を偶像化します。

   それは妄想であり、……結局のところニセモノなのです。


未来と別の世界

「フェイクファー」はなんと言っても最後の大サビ(Cメロ)がかっこいいです。

   ドドドドドドと押し寄せる怒涛のサウンドと、「箱の外へ」という解放的な歌詞があいまって、このパートは迫力があります。


   歌詞を引用します。

「今から箱の外へ 二人は箱の外へ
   未来と別の世界 見つけた
   そんな気がした」


   閉鎖空間ものの映画のクライマックスのようです。


   では「未来と別の世界」とは何でしょう?

   ここでは下のような図式が成り立っていると思われます。


   ① 箱のなか = (ふつうの)未来 = 二人はいっしょにはならず別々の道を進む

   ② 箱の外 = 別の世界 = 二人はいっしょになる


   主人公にとって①は否定したいもの、②は肯定したいもの、です。


「未来」は普通は肯定的なものとして使われますが、ここでは逆に否定的に用いられています。そのため最初聴いたときに、ちょっと歌詞が理解できませんでした。

   草野さんは「群青」のなかでも「明日とか未来のことを好きになりたいな」と歌ってます。「好きになりたい」ということは、「未来」は今はまだ嫌い(もしくくは好きじゃない)ということですよね。

「未来」は決して肯定とは限らない。

   そういえば僕も明日とか未来という言葉は嫌いでした。

   どうせ今日と変わらないし、良いことないし。片思いはいつまで経っても片思いだし。


   だから「箱の外」に抜け出したかった。ここにいても先はないし。

   好きな子には実はつき合っている人がいて、片思いは永久に実ることはなくて。

   だからといってあきらめられるわけもなく(なにせ同じクラスだったから)、最後は、いっそ全部リセットしてしまいたいと思うようになってました。

   やがて強制的に終わりの季節は来て、僕は大学編入を機に金沢を出て名古屋で一人暮らしを始めました。オールリセットです。

   それで何かが回りだしたかというと、そんなことはなくて。

   未来と別の世界は、ただ何もない日々がべったりと広がっていて、それはそれでやるせなかった。


ニセモノの毛皮と長い片思い

   たぶん3年くらい告白するでもなく、グダグダと片思いをしてました。あほですね。

   どういうきっかけでそうなったかは忘れましたが、一度だけその子にスピッツのCDを貸したことがあります。

   それが「フェイクファー」でした。


   貸した後になって、返してもらうときにどんな感想を言うのだろうか、どんな話をしようかとドキドキしていました。

   しかしその子はダビングしたら早々に(次の日くらい?)返してきて、「ありがとう。よかった」程度で会話は終わりました。

   ちょっと寂しいような、感想をうまく話せる自信がなかったのでホッとしような気持ちになりました。……ヘタレですね。


   もうずいぶん昔なので、今ではその子の顔がどんなだったかよく思い出せません。

   ジャケットの女の子のように淡い白色の後光で顔がぼやけてる感じ。

   ……というか照れてまともに顔を見てなかったんだろうな。


   

「フェイクファー」の発表から20年以上過ぎましたが、今でもこの歌を聴くたびに、そんな甘くもない、苦いというにはあまりにしょうもない恋をして、ただグダグダと過ごした十代の終わりを思い出します。


   それでもその悶々とした時間のなかでスピッツの歌を聴くのは楽しかったように思います。

   たぶん、(スピッツに限らず)歌には恋をしているときにしかわからない力がある。魔法みたいな。

   その感触はもうぼんやりとしか思い出せないけど。

   

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