最後に残るのは声なのか 〜スピッツ「楓」感想

「楓」はスピッツの6thアルバム「フェイクファー」の6曲目に収録されています。
   曲順としては「運命の人」「仲良し」のあとに配置されており、ノリのいい曲が続いた後に静かなバラードを聞かせるという構成がうまい。泣かせにきてますね。
   アルバムのヘソのような歌だと思います。

   最近CMでカバーされたりもしましたし、なんだかんだでスピッツの代表曲の一つですよね。
   もちろん僕も好きですし、好きな人も多いと思うので、今回はつらつらと思ったことをとりとめもなく書いてみたいと思います。
スピッツ「フェイクファー」

メロディが楓っぽい?

   アルバム発売当時の雑誌のインタビューで草野さんがタイトルの由来について「メロディが、楓がはらはらと落ちていくようなイメージだったから」と語っていました。(昔の記憶なので違ってたらすみません)
   そう言われてみると、歌詞の中に楓も秋も出てこないことと気付かされます。それでも「楓」というタイトルがしっくりくるのは、たしかにメロディのイメージからくるものなのかもしれないですね。

君と僕のやりとりが泣ける

「楓」はAメロとサビで「忘れはしないよ」「さよなら」と歌っているのでどう考えてもどう転んでも別れ歌です。
「僕」は「君」とこれから別れてしまいます。しかし、いえ、だからこそ、Aメロで描かれている仲が良かった頃の二人のやりとりが微笑ましく、尊く映ります。

「いたずらなやりとり」
「心のトゲさえも君が笑えばもう小さく丸くなっていたこと」
「かわるがわるのぞいた穴から何を見てたかな」

   なんか良くないですか?
   じゃれ合っている感じとか、「僕」にとって「君」がかけがえのないものである感じとか、すごく好きです。
   十代の頃は恋人ができたらこんな関係になりたいと思いながら聴いていたように思います。

弱い僕は傷ついたり傷つけたがってる

   何度も繰り返されるサビの「さよなら 君の声を抱いて歩いて行く」ももちろん好きですが、1度しか出てこないもう一つのサビも好きです。
「これから 傷ついたり誰か傷つけても ああ 僕のままでどこまで届くだろう」

   草野さんの歌には他にも何度か「傷」が出てきます。
「僕に傷ついてよ」(惑星のかけら)
「傷つけてあげるよ」(猫になりたい)
   あるいは傷をつける道具であるナイフを隠している「空も飛べるはず」だったり。

   わりと、草野さんは傷つけたがってます。(!?)
   おそらく弱さの裏返しなのだと思います。弱いからこそ傷つけたくなる。ほんとに傷つけたら怖いですが、「こんな僕にだって!」という下から上を見上げる感覚が伴っているとしたら、その心情はなんとなくわかるものがあります。
   そういう弱者の目線で「これから 傷ついたり誰か傷つけても」という歌詞を聴いてみると、弱い「僕」がたった一人で傷ついたり傷つけたりしながらも生きていこうとする、決意や不安が感じられて、胸を締め付けらます。

   まあ、だいたいの場合において僕は、弱さを感じさせる歌詞に出会うと無条件で好きになってしまうわけですが。(自分の立ち位置がわかってしまいますね……)

草野さんのハイトーンがいい

「楓」はなんといってもサビの草野さんのハイトーンが素敵です。
   高いキーを声を張り上げるのではなく淡々と伸びやかに歌っているのがすごくいい。

   あくまで楓ですからね、枯れ枝から楓がはらはらと舞い降りるような繊細なイメージでないといけない。
   もしも声を張り上げて歌ったとしたら、吹雪がゴウゴウ吹いているようで、きっと「楓」ではなくなってしまいます。
   感情を抑えて「さよなら 君の声を〜」と儚く歌うからこそ「楓」の淡く切ない世界感が作られるのだと思います。
   そしてこのハイトーンはきっと草野さんじゃないとできない。
   だとすると、「楓」はスピッツの数ある楽曲の中でボーカル草野マサムネの魅力が一番詰まった歌なのかもしれません。

瞬きするほど長い季節ってなんだ?

「楓」にはCメロがあります。
   ここは転調もしているし、出だしの音が裏声で歌うには若干低いし、地声だと微妙にきついしで、いつも音を外すんですよね……いや、まあそれはおいておいて。

「瞬きするほど長い季節が来て 呼び合う名前がこだまし始める 聞こえる?」
   この「瞬きするほど長い季節」というフレーズが最初聴いたときからずっと、耳からすぅーっと入りこんで心にしみわたっています。とても良いです。しかしよく考えてみると、なんのことやらチンプンカンプンですよね。
   瞬きってどんなにがんばっても一瞬じゃん!って思うんですけど。

「永遠のように思える一瞬」ってことなんですかね。
   君との別れは永遠のようなのに、別れの時間は一瞬で(あるいは一言で)終わってしまう、とか。
   なんだか時空がねじ曲がったような奇妙なフレーズだけど、耳の奥できれいに響いていて、不思議です。

最後に残るのは声なのか

「楓」と同じく別れのバラード曲である「君が思い出になる前に」では、「君の耳と鼻の形が愛しい」と歌っていて、「耳」と「鼻」が残っていました。
   しかし「楓」では「さよなら 君の声を抱いて歩いていく」と歌っていて、姿形は消えて「声」だけが残ります。
「僕」はこれから「瞬きするほど長い季節」を「君の声」だけを胸に抱いて生きていくわけです。笑顔でも、肌のぬくもりでもなく。
   目に見えない声だけというのがなんだか寂しくて、当時はとても悲しくなりました。

   でもこの歌が世に出てから20年ほど経ち、当時好きだった子のことをいま思い出してみると、残っているのは、おしゃべりしたときの声だったり、歌ったときの歌声だったりして「ああ、楓は正しかったんだなぁ」と思いました。
   顔とか姿形ではなくて、案外「声」なんですね。「声」は「言葉」とも密接に関わりますから、「声」を媒介にしての「言葉」なのかもしれません。

   そういえば「歌ウサギ」のなかで「さっき君がくれた言葉を食べて歌い続ける」という歌詞がありましたね。
   君の声、君がくれた言葉を抱いて歩いて行く……そう考えたら、寂しいだけではないのかも。
   その言葉がこれから先、「僕」が真っ直ぐ歩いて行く指標になればいいなと思いました。