抗う、孤独を食べる ~スピッツ「新月」感想

「新月」はスピッツの13thアルバム「とげまる」の6曲目に収録されています。

   イントロの狂気めいたキーボードの音にまず心を揺さぶられます。
   暗闇のなかに月の光が降りそそいでいるようにも聞こえるのですが、その光が刃のように痛い。
   冷たいナイフを首筋に当てられたような、激しい雨にたたきつけられたような。心の奥深くに刺さる音です。

   それからAメロの「正気の世界が来る」という言葉にドキッとさせられます。
   音の迫力からして、「狂気の世界が」と言いたくなりそうですが、迫ってくるのは「正気」の方なのですね。
「正気の世界」という言い方には何か異質なものを感じます。正気という均一性に飲みこまれるのが怖くて逆らい抗っている、そんな風に聴こえます。


   そして最も印象的なのはサビの歌詞です。
「変わってみせよう 孤独を食べて 開拓者に 開拓者に」

   光でも闇でもなく、平凡でも退屈でもなく、正気でも狂気でもなく「孤独を食べる」というのが凄い。得体のしれない恐さがあります。
   普通に考えたら、孤独を食べても何も起きないように思います。孤独は他から離れ、限りなく無に近く、取り込むべきエネルギなんて無いからです。
   しかしここでは孤独は決してゼロではありません。なぜなら食べることで変化が生じるのですから。そう、孤独はエネルギなのです。なんという斬新な解釈!!
   しかもただ変わるのではありません。「開拓者」になろうというのです。そこには未知を開拓しようとする常軌を逸した覚悟を感じます。

   この「恐さ」や「覚悟」があるからこそ、「孤独を食べて」という歌詞が、いつまでも耳に残り、何度も何度も繰り返し「孤独を食べるとはどういうことか」と考えてしまいます。

* * *
   二十代に入って最初の年、僕は小さな部屋のステレオの前にポツンと座って、そこにしか自分の世界は無いとばかりに、ずっと独りで過ごしていました。(大学3年生で、6畳間に下宿していた)
   あのとき「孤独を食べる」なんていう発想は微塵も浮かばなかった。
   もしもあの一人の部屋で、変わるために孤独を食べていたとしたら、僕は 何かになれたのか?今とは違う何かに変われていたのか?
   どうなんだろう。

   当時は「新月」という歌はまだなかったので、「新月」を聴くたびに、あの小さな部屋で一人で過ごした日々のことを思い出し、いろいろ考えてしまいます。