どうでもいいと言い切れる強さ ~スピッツ「歌ウサギ」感想

「歌ウサギ」は「サイクルヒット1991-2017」のDisc3の14曲目に収録されています。

「歌ウサギ」いいですよね。歌詞とメロディのどちらも好きです。両方から心に響いてきます。
   書き出すと一文一文語りたくなってしまいますが、やっぱり一番心にズキンッとくるのは、最初の大サビ(間奏の手前のとこ)ではないでしょうか?

「『何かを探して何処かへ行こう』とかそんなどうでもいい歌ではなく 君の耳たぶに触れた感動だけを歌い続ける」

   スピッツの歌って、ここではないどこかのことを歌っているイメージが強いのですが、あらためて振り返ってみると、自分探し的な漠然とした歌は無い(あるいは少ない?)気がします。ぱっと思い出せない。
「明日海を見に行こう」とか。「鳥を追いかけて裸足で駆け出す」とか。意外と具体的で、明確なイメージがある。「目をつぶるだけで遠くへ行けたらいいのに」なんてふわふわしたことを言ったとしても、「レンゲ畑に立っていた」と、所在ははっきりしてますし。
   また、歌の中に出てくる女の子も、現実から切り離された空想のなかの天使のような存在ということはなく、しっかりと身体を伴った歌詞が多いです。
「サンダル履きの足指に見とれ」たり、「君の首筋にかみつい」たり、「震える肩を抱い」たり。「おっぱい」は世界一だし、「お尻」はでっかいし、「良い匂い」だってする。
「身体のどこかで彼女を想う」なんていう歌詞もあります。体を重ねた後でないと出てこない歌詞ですよね。
   どの歌もちゃんと肉体を持った女の子と恋愛をしています。

   こうして見てみると、たしかにスピッツの歌は、何かを探して何処かへ行ったりせずに、君の一部をみつめたり触れたりすることでできているようです。
   もっというと、彼(he)や彼女(she)すら出てこない。社会を批判したり、夢を持ってがんばろうなんていう押しつけがましいメッセージもない。ただずっと君と僕の世界だけを歌い続けてる。30年間、ブレていない。それってすごいことだなと思います。

   ただ、その反面、ちょっと待って、と言いたくもなるんですよね。「何かを探して何処かへ行く」ことが本当にどうでもいいことなのかなって。
   きっとそんなことはないと思う。やっぱり人なんだから、特に若いころは、ああだこうだ悩むわけで、「俺はロックンローラーになって、君の耳たぶと足指のことだけ歌うんだ―!」なんて言い切っちゃうことなんてできないと思います。それはたぶん草野さんだってそう。
   それに、十代二十代の歌手がそんな宣言しちゃったら、偏狭ですよ。もっと視野を広く持ちなさいと説教したくなる。(しませんけど)
    結果として30年間耳たぶのことを歌ってこれたことと、30年前に耳たぶオンリー宣言をできたかどうかは別問題です。

   そう考えると、「歌ウサギ」は今の草野さんだからこそ(十代でも二十代でもなく、もうすぐ50歳の草野正宗だからこそ)書けた歌なのではないでしょうか。
「そんなどうでもいい歌ではなく」と堂々と言い切れる30年の歴史に裏打ちされた強さと、「君の耳たぶに触れた感動」を変わらずに持ち続けていられる二十代(十代?)のままの感性とが、合わさって生まれた歌。ーーそれが「歌ウサギ」なんだと思います。

   最後に。2つ目の大サビの「さっき君がくれた言葉を食べて歌い続ける」という歌詞。これも素敵ですよね。「言葉」という葉っぱを食べることで、さりげなくウサギの比喩になっているのが可愛らしいです。
   そして、葉をくれるのが「君」で、ウサギが「僕」で、主従の関係が君→僕というのもいい。(これもずっと変わらないスピッツの歌の特色ですよね)
   恋(片思い)をしているときってこんな感じだなぁと思い出しました。