10年ぶりくらいに米澤穂信の「氷菓」を読み返しました。
僕は米澤穂信も古典部シリーズ(の2作目以降)も好きなのですが、どうもこの古典部シリーズの1作目の評価だけはいまいちでした。(氷菓ゆえに、とか書くと寒いと言われそう)
それなのに何故読み返したかというと、先日登山した際に、空き時間に読む本としてなんとなく選んで持っていったからです。
読み返してみたらシリーズの既刊全部を読んだ後ということもあって印象が変わっていて、けっこう楽しめました。
とはいえ、初見で僕と同じように「氷菓」にあまり良い印象を持たない人は多いのではないでしょうか?
まず各章の謎とその推理に興味が持てない。(なぜえるは教室に閉じ込められたか?なぜ毎週同じ時間に同じ本を借りて返却する人がいるのか?など)
全体的に作りが粗い(気がする)。
それから、えるの叔父の関谷純の過去に関する推理はただの思考実験に過ぎず、憶測の域を超えていない。ホータローの推理と過去に実際にあった出来事とが一致していたのは、可能性の一つがたまたま当たっただけと言えなくもない。
一般的な推理モノを期待して読むと肩透かしを食らいます。(といっても僕は普段は推理モノは読まないのですが)
ただ、このシリーズを通して読んでいくと、こういう思考実験というか、限られた情報の中で理屈を付けていく、というのがこの古典部シリーズの面白さであると気付きます。
特に4作目の「遠まわりする雛」に収録されている短編「心あたりのある者は」などは思考実験と屁理屈の極みです。(この短編はすごく好きで小説版もアニメ版も何度も見返しました)
また全部読んだ後だと主要登場人物4人の人物像もつかめているので、入り込みやすいというのもありました。(逆を言うと、一作目ではまだ人物がうまく書けていない。そういえば初期のホータローの喋り方はあとに比べてちょっと乱暴かなと思うところもあります)
そしてなによりも青春小説として面白い。
作中には、もやっとした何とも言えないエネルギのわだかまりや、鬱屈、やるせなさがはびこっています。
ホータローが最初にえるの叔父の心の叫びに気づくシーンは、2作目以降の話を読んでホータローの人物像が明確になったあとに読み返してみると、より胸にグッと来るものがあります。
そんなわけで、作りの粗いところもあるし決して名作とはいえないのですが、「氷菓」は青春小説として良い味を出していると感じました。
ところで、個人的には古典部シリーズは2作目の「愚者のエンドロール」が好きです。ここで評価が大きく上がりました。
いきなり2作目から読んでくださいとも言えないので、1作目の「氷菓」を読んで肌に合わなかった方も2作目の「愚者のエンドロール」まで読んでみることをおすすめします。
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