子供は「ただ言っただけ」の世界に住んでいるのか


   最近よく子どもたちとこんなやりとりがある。

1)
   長男がおもちゃを片付けず部屋が散らかっているので、僕は片付けるように注意する。

僕「おもちゃを片付けなさい」
長男「次男もおもちゃで遊んでいた」
僕「いつも言ってるだろう。他人のことはいいから、自分がやらないといけないことをやりなさい」
長男「ただ言っただけ」

2)
   長男がゲームで遊んでいて約束の時間を過ぎているので、僕は早く終わるように注意する。

僕「ゲームの時間が過ぎているから早く終わりなさい」
長男「三男ももう終わりの時間を過ぎている」
僕「いつも言ってるだろう。他人のことはいいから、自分がやらないといけないことをやりなさい」
長男「ただ言っただけ」


   大人になると、あるいはならなくてもわかるが、世の中に「ただ言っただけ」ということはそうそうない。
   ただの叙述文に見えても、そこには事実を述べた以上の何かしらの効果が発生する。

  上の例だと、長男の発言には「次男も遊んでいたのに片付けないのはずるい」「三男もゲームしているのに終わらないのはずるい」という非難や不満がこめられていると考えるべきである。
   片付けの場合は「次男にも片付けさせて」という嘆願もあるだろう。

   こういうとき、僕は「ただ言っただけということはない。それはどういう意図だ?」と聞くのだけれど、長男は「ただ言っただけ」を繰り返し、しまいには「わかった、わかった。はいはい」と言って終わらせようとする。
   それを見ていると、子供は本当にただ言っただけだと思っているのか、思わぬところで父の逆鱗に触れてしまい慌てて意見を引っ込めたのかのどっちだろうと考えてしまう。
   顔色を見る限りはおそらく後者だろう。非難や不満を口にしたら怒られたので、言った言葉以上の意味はございません、ということにして逃げきろうとしたに違いない。


   言葉にはただ言っただけ以上の意味や効果がある。
   ベタな例だが、食卓で目玉焼きを食べようとしたときに、妻が目の前に塩の入った瓶を置いて「ここに塩があるよ」と言ったとしたら、それはただ塩があると言っただけではなく「塩をふりかけたかったらどうぞ」という提案なり指示をしたことになる。
   更にいうと、ここには「目玉焼きには塩を振りかける」という常識が前提として存在する。

   もしも置かれたのが醤油であり、自分には目玉焼きに醤油をかける文化がなかったとしたら、「ここに醤油があるよ」という妻の言葉を僕は「今からお刺身を出すから醤油皿を持ってきて」という指示だと勘違いしたかもしれない。


   言葉が言葉のまま、ただ言っただけであるということは少ない。どうしても周りの状況や育った環境から影響を受けてしまう。
   もっと小さい子供ならそれもあるかもしれない。言葉を覚えたての赤ん坊の頃だ。
   それは言葉が純粋に言葉のままの世界。とても無邪気な世界だ。

   しかし少し大きくなった子供はその無邪気さを武器に大人の叱責から逃れようとする。
「ただ言っただけ」ーーそんな無邪気な世界からとっくに抜け出していることを僕らは知っている。