スピッツの「みなと」を繰り返し聴いていると、この歌のなかに出てくる二人が本当にこの世界のどこかにいるような気がしてきます。
そしてそのうちのひとりは今はもうどこにもいないと感じられて、とても胸が苦しくなります。
「みなと」の情景はリアルです。そこに二人の姿がありありと浮かんできます。
でも写実的ではなく、草野さんらしい幻想的な雰囲気も持っています。
歌詞が綺麗すぎず、ちょっと引っかかるところがあるのが、この歌にリアルさや生きた感触を与えていると思います。
例えば冒頭の「船に乗るわけじゃなく 僕は港にいる」
説明臭くないですか?言い訳がましいというか。スマートじゃない。
でも、多少説明臭いことで本当っぽさが増し、想像ではなく実際に一人で港に来た体験を歌っているように聞こえてきます。
それから2題目のAメロの「遠くに旅立った君の証拠も徐々にぼやけ始めて」のなかに出てくる「証拠」という単語。これも最初聞いたときに引っかかりました。
”君”のことを語るのに「証拠」という単語はあまり使わないのではないでしょうか。普通だったらここに「記憶」や「思い出」あるいは「笑顔」「声」が入りそうなものです。
でも、本当に”君”がいなくなった人にとっては、生きている”君”の姿を思い出すという行為は、自分のなかの「証拠」を「目を閉じてゼロから百までやり直す」という作業なのかもしれない。
飾らない言葉が確かな心の動きを伝えています。
他には「優しくなるユニバース」「謎の光思い出す」「己もああなれると信じてた」などが、あまり綺麗とは言えない、ちょっと引っかかる部分です。
でもそれ故に、そこに生々しい感情や、リアルな二人のやりとりを読み取ることができます。
主人公の青年はむかし”君”と二人で並んで謎の光を眺めながら、空を指さして「あれUFOじゃない?」「飛行機でしょ」「流れ星」といったやりとりをしていたことを思い出す。
そして、すれ違う恋人たちの笑顔を見て、もしかしたらありえたかもしれない”君”との幸せな未来をつい想像してしまう。
「僕」でも「俺」でもなく「己」と書くところに、彼なりの強がりであったり、克己心を感じます。
「僕」でも「俺」でもなく「己」と書くところに、彼なりの強がりであったり、克己心を感じます。
2.
二人の姿がはっきりするにしたがい、気持ちはだんたんともの悲しくなります。
”君”はどうなったんだろう。今もこの世界のどこかにいるのでしょうか。
「君ともう一度会うために~」と言っているにもかかわらず、何故かもう現世では会えない気がしてなりません。
”君”はどうなったんだろう。今もこの世界のどこかにいるのでしょうか。
「君ともう一度会うために~」と言っているにもかかわらず、何故かもう現世では会えない気がしてなりません。
この歌が5年後の3月の次の月に発売されたということにも何だか意味があるように思えてきます。それはよりいっそう喪失感を強くさせます。
歌のなかの青年は大切な人がいなくなった世界で本当に生きていけるのでしょうか。
彼のこれからのことを思うととても辛くなります。
一方で、発売日には意味なんてない、とも思います。
すべては聞く者の勝手な想いすごしに過ぎない。その可能性だって十分にあります。
すべては聞く者の勝手な想いすごしに過ぎない。その可能性だって十分にあります。
”君”は船に乗って旅立っただけで、今も遠くの町に住んでいるのかもしれない。
いずれ彼のもとに帰ってくるのかもしれない。
彼はただ待ちきれなくて、”君”の到着日でもないのに港に来ていただけなのかもしれない。
「みなと」は二人の姿こそリアルに体現していますが、彼の置かれた状況については明確にはしていません。
何が起きたのか、あるいは何も起きなかったのかは、聴く人の解釈に委ねられています。
ベースの田村さんがファンクラブの会報(vol.96)のなかで「みなと」のレコーディングについて「シューゲイザーではなくシューゲイザー感」を「大事にしたかった」と話していました。
正直、どのへんが「シューゲイザー感」なのかはよくわからないのですが、この絶妙なこだわりで作りこまれたバンドサウンドが、「みなと」のもつあたたかい音につながっているのかなと思います。
浮遊感があり幻想的なんだけど、足もとから地面のぬくもりを感じられるような。切なくて胸が苦しいのだけれど、夕焼けのオレンジ色が体をあたためてくれるようなーー「みなと」のサウンドは決して悲しくはない、むしろほんわりとしています。
それに加えて、「汚れている野良猫にも いつしか優しくなるユニバース」と歌っている。この世界は決してただ不条理でひどいだけではない。あたたかく優しくなろうとしている。
だから”僕”はもう一度”君”と会い、大事な歌を”君”に歌って、二人で笑いあうことができたはずだ。
そう思えてくるのです。
いずれ彼のもとに帰ってくるのかもしれない。
彼はただ待ちきれなくて、”君”の到着日でもないのに港に来ていただけなのかもしれない。
「みなと」は二人の姿こそリアルに体現していますが、彼の置かれた状況については明確にはしていません。
何が起きたのか、あるいは何も起きなかったのかは、聴く人の解釈に委ねられています。
3.
そして、これは確実に言えることなのですが、サウンドがあたたかい。希望があります。ベースの田村さんがファンクラブの会報(vol.96)のなかで「みなと」のレコーディングについて「シューゲイザーではなくシューゲイザー感」を「大事にしたかった」と話していました。
正直、どのへんが「シューゲイザー感」なのかはよくわからないのですが、この絶妙なこだわりで作りこまれたバンドサウンドが、「みなと」のもつあたたかい音につながっているのかなと思います。
浮遊感があり幻想的なんだけど、足もとから地面のぬくもりを感じられるような。切なくて胸が苦しいのだけれど、夕焼けのオレンジ色が体をあたためてくれるようなーー「みなと」のサウンドは決して悲しくはない、むしろほんわりとしています。
それに加えて、「汚れている野良猫にも いつしか優しくなるユニバース」と歌っている。この世界は決してただ不条理でひどいだけではない。あたたかく優しくなろうとしている。
だから”僕”はもう一度”君”と会い、大事な歌を”君”に歌って、二人で笑いあうことができたはずだ。
そう思えてくるのです。