スピッツ「渚」感想

   7thアルバム「インディゴ地平線」の4曲目に収録されています。
「チェリー」の次のシングルとしても発売されました。

   歌の始まる前のポロポロと鳴るシンセサイザーのシーケンスが印象的です。この音を聞いただけで、光を反射してキラキラと輝く波打ち際や白い砂浜が自然と思い浮かびます。思い込みかもしれませんが”渚”って感じがします。

   綺麗なメロディラインにさわやかでちょっと切ない言葉を並べたとてもキャッチ―な曲です。と同時に、すごく不思議な曲でもあります。
   例えば、最初から最後までずっと”渚”な感じが漂っていて、”渚”な気分で聴いているのですが、実は1題目のAメロでは渚や海辺を連想する言葉は出てこないんですよね。1回目のサビの途中でようやく「波の音に染まる」と”波”が出てくる。だけど最初から”渚”っぽい。
  2題目も同様で、ほとんど”渚”らしい言葉はありません。Bメロで「水になってずっと流れるよ」と歌ってますが、これもどちらかというと1題目の「野生の残り火抱いて」との対で使われているように思います。「行きついたその場所」がそれとなく「海」を指していますが、直接的には「海」なんて一言も出てこない。白いビーチも水着も無しです。2回目のサビでようやく「渚」が出てきます。だけど最初から最後まで”渚”っぽい。
   きっと、二人は、海なんて見えない住宅街の一角の古いアパートに住んでいるんだと思います。高台なので、窓を開けたら風だけはさわやかで、「海に行きたいねぇ」なんて言いながら、海から遠く離れた場所で暮らしている。だけど”渚”っぽい。

   この”渚”っぽさは一体なんなのだろう。どこから来るのだろう。いろいろ考えてみました。

「渚」は波打ち際のことで、海と陸の境目です。しかも、波は絶えず寄せては返しているので、境界線が明瞭じゃない。時々刻々と変化している。海が陸を侵食したり、逆に陸が海を侵食したりしている。
   スピッツの「渚」で歌われているものは、明るい日の当たる世界が不穏なものに少しずつ浸食されている、そんな日常と非日常の境界線なのではないかと思います。

   歌詞を見てみると、明るいようでいて、どの歌詞にも少なからず影が潜んでいます。
   冗談をささやきあい、つながりも信じているけれど、乾いた砂漠が視界に入りそうなところまで近づいてきている。先を照らす星は見えているけれど、一等星なんかじゃなくて六等星でぼやけている。プライドを捨てて恋に落ちたけれど、それは思い込みかもしれない。どうにか君といっしょに生きているけれど、ギリギリだし、支えになっているはずの楽しい思い出はねじ曲がっていて、他には妄想しか残っていない。
ただ明るいだけじゃない世界に二人は(僕は?)身を置いています。

   海辺のキラキラとした世界に飛び込んでいたつもりが、実はすぐ足元まで暗い影が迫っている。波打ち際で足が波に濡れないようにギリギリのところで遊んでいたはずなのに、気がついたら足に波がかかり始めている。
   この何かに浸食されていく感じ、何かが忍び込んでくる感じが、「渚」という歌の”渚”っぽさなのかなと思います。

   そして、この明るいだけで終わらない不安な感じが、心をひきつけます。
   光と影がせめぎ合い、揺らいでいる。絶えず不穏なものに脅かされていて、”日常”のギリギリの境界線上にある。ーー「渚」の良さはそんな不安定な世界観にこそあると思います。

   実際、僕らの住む日常ってそんな感じですよね。ドラマチックなことがあるわけでもないけれど、ささやかな喜びが小さな不安に侵されそうになり、それをなんとかして追い払ったら、また違う不安が押し寄せてくる、その繰り返し。渚ですね。

   最後に、「渚」の影の主役のベースのことを書いて終わります。
「渚」のベースがとても好きです。1題目はほぼ寡黙を通し、2題目も四分音符をスタッカートで淡々と弾いているだけというシンプルな構成なのに、すごく存在感がある。
   そして何より長いアウトロでのとろーんとしたベースソロ。これがたまらなく良い。波打ち際で足を砂に突っ込んで立っているときの感じに似ています。止まったままなのに海にすーって運ばれていくあの不思議な感じです。
   アウトロのベースソロを聴いていたら、波打ち際に立っていたはずなのに、振り返ったら、砂浜も街もなにもかもなくなっていた、そんな時間感覚にとらわれます。
   もっとずっと聴いていたいのに、ベースソロの一番いいところが始まったと思ったらすぐにフェードアウトしていくのが悔しい!