スピッツ「空も飛べるはず」感想

  5thアルバム「空の飛び方」の3曲目に収録されています。
  これだけ有名だと感想を書くのも恥ずかしいですね。なので、昔あったことをひとつだけ書きます。いつも以上に個人的なことで申し訳ないのですけれど。

  ある朝、いつものように通学のため自転車で駅まで向かっていたときのことです。家から半分くらいまで来た交差点で信号が赤になったので、立ち止りました。
  そのとき僕は信号を待ちながら歌を歌っていました。歌いながら自転車を漕いでいたのか、信号待ちになってからふと口ずさんだのかは忘れましたが、朝なので自分にだけ聞こえるくらいの小さな声で。

  ぽろぽろと口ずさんだ歌詞が朝の光に溶ける前に耳に入り込み、脳内で再び意識と混ざり合い、なにか新鮮な感覚が突然身体を貫きました。
  澄んだ風が首の後ろへと吹き抜けていくような、いや、背中を通って光が頭から抜けていくような、そんな感覚です。
  そして、ほんの一瞬ですが、目の前の光景がぱっと鮮やかになりました。心が震え、アスファルトを見ていた顔を上げて思わず空を見ました。

  そのとき僕が口ずさんでいたのが「空も飛べるはず」の2題目の「儚く揺れる髪の匂いで 深い眠りから覚めて」というフレーズです。
  なぜそんな変化が起きたのか、この歌詞のどこにそこまで心を打たれたのかはわかりません。それまで一度も気にかけたことのないパートでした。
  また、歌と共鳴するような心境にあったかというと、そんなこともなかった。失恋も新しい恋も、勝ったり負けたりも、特別なことなんて何もない、ごく平凡な朝でした。
  草野マサムネが目の前で歌ってくれたわけでも、数百万円の超高級オーディオが音楽を鳴らしたわけでもない。
  何か現実の助けとかそんなものなしに、歌だけで、しかも自分の声でぽろっと口にしたワンフレーズで、たったそれだけで、一瞬で世界が変わって見えた、もっと大げさに言うなら、違う世界にトリップできた。それがあの朝に起きたことでした。
  あれから20年近く経った今でもそのときの鮮やかで不思議な感覚を忘れることはできません。

  歌には魔法がある。あの日僕が口ずさんだ歌は、僕の世界を一瞬だけ鮮やかにしてくれました。それはまぎれもない魔法だったと思います。でもその力はささやかで、決して強いものではない。
  もしもそれが強い魔法だったのなら、あの交差点を渡った先に、黒髪の美少女が現れてドラマチックな恋に落ちていたと思うんです。でもそんなことはなく、普通に電車に乗って普通に授業を受けて普通に男友達と音楽の話をして、といういつもの日常があっただけです。
  歌が持つ魔法は現実を書き換えるほど強くはない。不治の病が治るわけでもないし、壊れた街がもとに戻るわけでもないし、ゴミみたいな世界を変えることもできない。
  けれど、それはここじゃない何かに僕らをつなげてくれる。それだけで十分素敵なことだと思うのです。

  今でもときどき、「空も飛べるはず」を聴くたびにあの日の感覚を思い出します。ぱっと鮮やかになった交差点の風景と青い空と。
  そんなとき、弱い魔法にかけられたように、心の底にほんのちょっとの力が湧いてくるのです。
  ここはつまらない世界だけど、まだ大丈夫だって思える。